父の世界は布団の上だけだった
泣く母親
小さい頃のことはあまり覚えていないが、まったく記憶がないわけでもない。
その中でもよく覚えているのが、母親が泣きながら私に何か言っていたことだ。
私は母親の頭を撫でていた。
母が何を言っていたかは覚えていない。
ただ母親がよく泣いていたことは覚えている。
港の青空
後から聞いたのだが、父親が愛人のために会社の金を使い込み、愛人と二人で逃げたらしい。
その父を連れ戻すために、母親と父方母方の祖父母with私(二歳児)が南へ赴いたことがあった。
確かに、記憶の中に
「父親を迎えにどこかの港に行った。とても澄んだ青空だった」
という風景はあったが、実はその時のことのようだ。
記憶の中の美しい青空は、父親の不倫と使い込みの末にあるものだったのだ。
笑えん。
プレゼント
それ以外にも、父は母以外の女性にいろいろ贈り物をしていた。
母から聞いたのもあるが、私自身、父親が誰かに送るプレゼントを本人から見せられたことがある。
当時はまっったく深く考えなかったが、あれがそうだった。
そんなもん子供に見せるな。
会社は父を訴えなかった
そして、話は使い込みに戻るが。
どうやら父の会社は父を訴えることはせず、一応、自主退職という形を取らせてくれたらしい。
申し訳ない。
そしてありがたすぎる。
二階への引っ越し
会社を辞めて前の家に住めなくなり(そりゃそうだ)、どこかの2階に引っ越した。
引っ越した当日の記憶はある。
しかし、そこでの暮らしは、あまり覚えていない。 まあ、保育園児だから当然か。
覚えているのは、
母が泣いていたこと
テレビを見ていたこと
父とおじさんに連れられて夜のお店へ行き綺麗なお姉さんたちにと一緒に居たこと、父とおじに『母さんには内緒だ』と言われたこと
くらいだ。
古いアパート
そしてその家からさらに別の家に引っ越した。
今度はアパートである。
しかも、かなり古いアパートだった。
二部屋しかなくて、お風呂は付いていない。
それまでは少なくともお風呂はあったので、だんだん暮らしがグレーダウンしているのは確かだ笑えない。
もし私が小学生ぐらいだったら泣いていたかもしれない。
その事故がなければ違っていたのか
私が小学校一年の時。
父親が雨の日、仕事から傷だらけになって帰ってきたらしい。
バイク事故だ。
そのまま救急車➡手術である。
そして父親は、その時の手術がいまいち良くなくて、その後、足のしびれが取れなくなったとのこと。
これは、後から母親に聞いたことだ。
鍵と帰宅と
父親が働けなくなり、代わりに母親が働きに出るようになった。
学校から帰ってきた後、家の鍵を開けているのをよく覚えている。
数年は、私が帰ったとき、家に誰も居ない時期と父親が居る時期が、交互に繰り返された。
酒
そして私が小学校一年生から小学校六年生に成長する間に、父親の状態はどんどんと悪くなっていった。
その間もずっと同じ病院に入退院を繰り返していた。
けれど、だんだんとしびれが激しくなり、それを誤魔化すためにお酒に溺れるようになった。
母曰く、最初は適量だったはずのお酒が増えていったらしいが、それは、私の記憶の中の父と一致する。
母子の心、父知らず
そんな生活をしていくうちに、お酒を飲みすぎて、いつもの病院ではなく、精神系の病院に這入ろうかという流れになった。
しかし、入院当日、受付で暴れて入院を拒否られて帰ってきたりと、まあ結構いろいろなことがあった。
母親は憔悴しきっていたし、正直私も、家に帰ってきた途端、普通の態度になり入院を免れて喜ぶ父親を見て、うんざりした。
精神科
が、それから。
父親はやはり、おかしくなっていった。
最初は話ができていたのに、だんだんと意味のわからないことを言い出して、ろれつが回らなくなる。
ある時など、自分のパジャマに、私に赤ペンで絵を描かせて喜んでいたこともあった。
赤いペンが血を連想させる。
私はその時、父親をすごく不気味に感じていた。
母親に言ったら、母親が泣いていたように覚えている。
父が激しい幻覚、幻聴を発症するようになり、今度こそ「入院し」お酒を抜き、一旦は普通になって帰ってきた。
母と祖母が、すごく喜んでいたのを覚えている。
父も、その時の自分を笑い話のネタにしていた。
それで安心できた、と思っていた。
でも家に居ると、結局、酒を飲み。
二度と戻ることはない病院へ
精神ではなく、体が限界を迎えてしまった。
そうなると、通常の病院では無理である。
ついには、いわゆる長期療養型の病院に入院することになった。
そこは、患者はほぼ老人だけ。
しかも、自力で動けない方が殆どだ。
父はその時、まだ三十代で老人と言える年齢ではなかったが、口はきけず、体を動かせず、ただ瞳を動かせるだけの状態となっていた。
父親は、いわゆるイケメンだ。
女性にももてていたと聞いた。
声も良く、歌をしょっちゅう歌っていた。
地元にも友人は多い。
そんな父親が、最期は老人ばかりの病院にいた。
私たち子供が見舞いに行くとすごく嬉しそうで、私たちが帰る時には悲しそうに涙を流す。
前は、自分でも自分がわからなくてなっていたのに、その時は自分の状態が分かっていた。
私は彼にあまり話しかけなかったが、それでも喜んでいたようだ。
そんな日々を繰り返し。
そして、彼は私たちが見舞いに行く予定の前日に亡くなった。
『彼』と『父』
彼、と書いたのは。
父が病院にいる頃、私にはその人が「父親」という感覚があまりなかったから。
けれど、亡くなって家へ戻ってきた時、不思議とまた父になっていた。
病院からの知らせを受けたとき、私たち子供は置いていかれた。
母親とおそらく親族のみが行った。
そして、誰も父の死に目に会えなかった。
母たちが着いたときには、もう父は冷たくなっていた。
それだけは後から聞いた。
父の姿
いつもお酒を飲んでいた。
だんだん意味のわからなくなることを言うようになった。
病院で暴れて入院を断られて帰ってきた。
ろれつが回らなくなり、オムツが必要となった。
そして最後は、血縁者の誰とも会えず、一人で逝ってしまった。
そういう思い出しかない。
悔しい、怒り、悲しい。
そういうこともなく、ただ「そういう思い出」しかないのが、私にとっての父親だった。
おそらく家にいないことが多かったので、父親とはそれほど縁が深いものとは思えなかったのだろう。
母が言うには、父は母のことはないがしろにするが、私たち子供のことはとても愛していたらしい。
けれど当時の私には、それがよくわからなかった。
私が見る父はいつもお酒を飲んで、わけのわからないことを言って、母を泣かせていた、そういうイメージしかなかった。
父から聞く想い出は美しかった
父はよく、昔の話をしていた。
思い出補正もあるだろうし子供に良い格好をしたかったのもあっだろう、その話はいつも美しい。
アクティブで、あちらこちらで歌い、祭では声を上げ。
そんな人が、事故で一生取れないしびれと生きることになった。
夜中に包丁を持ち出し、足を切り落とそうとしていたらしい。
それ程しびれは激しく、そこから逃げるために酒に走り。
彼も辛かったのだ。
それは分かる。
それでも、私が一番思い出すのは、飲んだくれている父の姿だ。
もし、父が苦しんでいる姿を直接見ていたのなら、何かが変わっていたのだろうか。
答えはない。
記録の最果てにて
父のことを、例えばスピリチュアル系の人に話すと、大概ドラマチックに感情を盛り上げてこようとする。
「辛かっただろう」 「何か父さんに言いたいことはあるか」 みたいなことを言ってくるが、特にない。
特に解消したい怒りもトラウマもない。
ただ、そういう人だったのだという思い出というか記憶しかない。
だから、ここにいろいろ書いても、書いているだけで、何かを浄化するとかそういうことはない。
整理したかったのだろうか?
いや、書いてみたけれど、別に何かが整理されたわけでもなかったようだ。
ただ、これを書いて改めて一つ、感じたことがある。
父も母も精一杯、子供たちを守ろうとしていた。
それは、確かだ。
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八言さん、読ませていただきました。
ここまで書くのは、簡単なことではなかったと思います。
お父さまのことを、
無理に美談にするわけでもなく、
怒りや悲しみを大きく盛るわけでもなく、
「そういう人だった」
という記憶として書かれているところに、
とても重みを感じました。
ぼくの父も、お酒で人生が大きく狂ってしまった人だったので、
読んでいて分かる部分がたくさんありました。
辛かったのだろうと思う気持ちと、
それでも子どもから見た父の姿は別で残っていること。
その両方があるからこそ、
簡単に許すとか憎むとか、
そういう言葉だけでは片づけられないのだと思います。
最後の、
「父も母も精一杯、子供たちを守ろうとしていた」
という一文が、痛いほど胸に残りました。
ダムズさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
ダムズさんも、親の酒 に振り回されていたのですね。
物語みたいな分かりやすい『悪』ではないからこそ、簡単に癒しや浄化や許しとか言えかいなあと。
書いてみて、改めて、あの状況でも私たち子供を守ろうとしていた父母の輪郭がハッキリ見えたように思います。
ダムズさんは、守る側の立場ですし、また、少し違う層が見えるかもですね。
ありがとうございます。